子供って望んで産むのではないのか?
心身共に大変なのはわかるけど、なぜにそれを切々と訴え認めてもらわなきゃいけないの?
動物として子供を望み産めたことは幸せじゃない。
私は育った環境から、それ以前に産みたいとさえ思わない人間に育ち、
(純粋に子供が欲しいと思ったことがない)
例え妊娠しても、投薬を中断すれば生きることが困難になる為出来ず、
子供を産むという選択肢のない人生を生きてきた。
それは仕方がないと思ってはいる。
そういう親の元に産まれてきた、私の定めだと。
それなのに、ずっとその親から欠陥品扱いされている。
子供を産み育てる大変さを知らないくせにと。
子供を望むのに、産めなかったとしたら、
多分殺したい衝動に駆られてただろう。
だけど私は産みたいと思ったことがない。
※加筆
妊娠出産自体恐ろしいと感じるし、
何より自分自身、子供の人生に親が大きく影響してくることを
嫌というほど味わって(苦しんで)いるので、
とてもじゃないが、子供の人生の責任を取れないと思うのが一番の理由。
※ここまで
だから、産んだかどうかより、産みたいと何の疑問もなく思い、
そして産んで育ててる人の幸せを見せつけられると、
どうしようもない劣等感に襲われる。
産みたいと思わず生きてきたことに劣等感を感じるのだ。
土曜日の産婦人科は地獄だ。
家族連れで来ている妊婦さんが多いから。
前回年末の土曜日に行ってしまい、待合室で苦しくなり涙を堪えて座っていた。
私はあの親の立場だけでなく、
子供の立場にもなれなかったんだと。
この強い劣等感は一生無くなることはないだろう。
そして冒頭の話に戻る。
切々と大変さを討ったえる人って、そう言いながら
子供を持てた幸せはちゃんとわかってるんだよ。
「子供なんて居ない方が気楽でいいわよ~」と言いながらね。
じゃあ、あなたは望まれて産まれてきたんじゃないの?と言いたいだろう。
残念ながら、
結婚したら自然と子供は産まれるもんだ、
とやかく考えるもんじゃない、
と産んだ人から言われたんだよね。
そして自己憐憫に襲われる。
毒親に育てられたACの人間は、自分の中の小さな子供を抱きしめてくれる人を
探すだけで一生が終わってしまうのだろう。
心身共に大変なのはわかるけど、なぜにそれを切々と訴え認めてもらわなきゃいけないの?
動物として子供を望み産めたことは幸せじゃない。
私は育った環境から、それ以前に産みたいとさえ思わない人間に育ち、
(純粋に子供が欲しいと思ったことがない)
例え妊娠しても、投薬を中断すれば生きることが困難になる為出来ず、
子供を産むという選択肢のない人生を生きてきた。
それは仕方がないと思ってはいる。
そういう親の元に産まれてきた、私の定めだと。
それなのに、ずっとその親から欠陥品扱いされている。
子供を産み育てる大変さを知らないくせにと。
子供を望むのに、産めなかったとしたら、
多分殺したい衝動に駆られてただろう。
だけど私は産みたいと思ったことがない。
※加筆
妊娠出産自体恐ろしいと感じるし、
何より自分自身、子供の人生に親が大きく影響してくることを
嫌というほど味わって(苦しんで)いるので、
とてもじゃないが、子供の人生の責任を取れないと思うのが一番の理由。
※ここまで
だから、産んだかどうかより、産みたいと何の疑問もなく思い、
そして産んで育ててる人の幸せを見せつけられると、
どうしようもない劣等感に襲われる。
産みたいと思わず生きてきたことに劣等感を感じるのだ。
土曜日の産婦人科は地獄だ。
家族連れで来ている妊婦さんが多いから。
前回年末の土曜日に行ってしまい、待合室で苦しくなり涙を堪えて座っていた。
私はあの親の立場だけでなく、
子供の立場にもなれなかったんだと。
この強い劣等感は一生無くなることはないだろう。
そして冒頭の話に戻る。
切々と大変さを討ったえる人って、そう言いながら
子供を持てた幸せはちゃんとわかってるんだよ。
「子供なんて居ない方が気楽でいいわよ~」と言いながらね。
じゃあ、あなたは望まれて産まれてきたんじゃないの?と言いたいだろう。
残念ながら、
結婚したら自然と子供は産まれるもんだ、
とやかく考えるもんじゃない、
と産んだ人から言われたんだよね。
そして自己憐憫に襲われる。
毒親に育てられたACの人間は、自分の中の小さな子供を抱きしめてくれる人を
探すだけで一生が終わってしまうのだろう。