不安神経症でも生きてきた

不安神経症を21歳で発症して四半世紀以上経ちました。予期不安のみになり服用がなくなってからは18年。診察内容や認知行動療法での治療について、また、日々の思いなどを書いています。

カテゴリ: 発症後のこと

随分前のことなので、曖昧な部分が多いですが、書いていきます。


精神科に罹り精神安定剤を服用しだして、3年?くらいした頃だろうか、
いやに眠気が出るようになった。
それだけでなく、ふらつきも増え、何かおかしい。

受診すると、薬が効き過ぎているという。

不安神経症の状態が良くなってきてるから、今まで飲んでた薬で眠くっているということ。


そこで、それまで飲んでいたワイパックスより軽い薬が処方されると、
それが効いたようで、しばらくは普通にまた過ごせるようになった。


でもそれはほんのしばらくのことだった。

ちょうどバブルがはじけた時で、3年務めた会社をリストラされてしまい、
数カ月後新しい仕事を見つけたのだが、とにかく体調がおかしい。
体調というか、不安症状がひどくなってしまったのだ。

とても続けることが出来ず、すぐに退社。

それからは仕事もせず、当時やっていたフラメンコのレッスンに通う日々。

1年ちょっとそんな月日が流れ、フラメンコの発表会が終わった頃、
さらに不安症状がひどくなっていき、フラメンコも出来ないくらいふらつきだした。

それからは自宅に引きこもるように。

なのに、不安神経症自体は良くなってるというのだ。
こんなに心身ともに症状が出てるのに!


納得いかない私にU先生はこう説明した。

今までは病気が重い分、薬で抑えることが出来ていた。
だが病気が軽くなってくると薬も軽くなってくる。

不安は一定ではないから、強い不安の時もある。
でも薬が軽いから、その幅を超えた不安をカバーすることが出来ない、と。


軽いわけがない。

そう思った。
なのに薬はどんな軽いものを飲んでも眠くなってしまう。

最後に今までとは効き方が違う薬、セディールとやらが出た。
「これは眠くならないから」と。

なのにそれさえ眠くなる。

「もう飲まなくてもいいよ」と言われても、そんなの恐ろしい。

私は最後錠剤を1/8に割ってまで飲んでいた。


あれは絶対精神安定剤の依存に違いない。

長期に飲めば絶対依存性が出る。


1995年。阪神大震災があった年。
通院を初めて約6年。27歳。

それから今まで以上の地獄が始まった。


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これを書いているだけで、いつもと違う不安が込み上げるので、
調子のいい時しか書けないかもしれません。。。。。

というか、序の口のこの記事でこれじゃあ、
過去のことは書くのは、これ以上無理だと思います。

家族 診察室

家族同伴で精神科受診


待合室で診察の順番を待っていると、
たまに家族と一緒に診察室へ入って行く患者さんがいる。

本人の症状がひどく、自ら説明が出来ない場合は、
必然と家族が同席し、説明することになるだろう。
だが、私が見ている限りは、そうではないようだった。

かく言う私も、最初の頃、数回母が同席したことがある。
もちろん私が希望したわけでない。

診察室から逃亡


ある日の診察室。

同席した母が言う。
「自信を持ってやればいいんだから」

「自信は後からついてきますからね」

そうU先生が言うも、母はやめない。
どれくらい黙って聞いていただろう。

私はついに耐え兼ねて、大声を出した。

「もういい加減にしてよ!!!」

そう叫んで、私は診察室を出て病院を飛び出し走った。

こうやっていつもいつも否定するんだ。私が悪いだけだって。
何一つ理解しようとしない。

すぐに父が追っかけてきた。
こう書いて気付いたが、症状がひどくなってきてた時期かも知れない。
それまでは一人で車を運転し通院していたから。

その日はそのまま診察室へ戻らず帰宅。
次回の診察の時に、叱られるかと思いながら謝ったら、
U先生は全然怒ってなかった。

ついに先生が怒鳴った


それからまた同席したある日の診察室。

いつものように、母は私を責めていた。
私が何か発言しても、~すればいいだけのこと、
とことごとく否定してきたのだ。

そしたら黙って聞いていたU先生が大声で怒鳴った。

「黙ってなさい!放っておいてあげなさいよ!!」

驚いた母は、心臓があぶって苦しいと言い出した。
私はまだ母の正体がわかってなかったから、
母の手を握り、子供の頃のように母を守ろうと、U先生を睨んだ。

「お父さん呼んできて」と言うので、
私が母を待合室の父のところへ連れていって、診察室へ戻った。

自分の心配をしてるだけ


「自分達が直す気がないなら、せめて黙っていてくれるといいんだけどね、
ああやって治療の妨げだけするから困ったもんだよ。
お母さんはね、自分の心配してるだけだから。あなたの心配なんかしてない」

衝撃的な言葉だった。

でも私は気づいてしまったのだ。
U先生の言う通り、それまでずっと母は自分の心配しかしてないということを。

私が病気で困るのは私じゃなくて、母なんだと。

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担当医が決まってからのこと



地元の精神病院で、U先生の曜日に受診するようになった私。

でも、精神科の罹り方なんてわからないし、何を話せばいいのか、
どこまで私の病気と関係ある話なのか、さっぱりわからず、
それ以前に私は心を閉ざしていた。

もう四半世紀も前のことなので、きっかけは覚えてないが、
最初の病院で一度だけ心のうちを泣きながら話したことがある。

多分U先生が「何か困ってることはない?」みたいなことを言ったのだと思う。

「うまく・・・うまく行かないんです」

その当時の私にとって大問題なのは、症状のこともそうだが、
交際している男性とうまく行かないこともかなりの部分を占めていたのだ。

ひと言口にしたら、堰を切ったように涙が溢れてしまった。

今までずっと口をつぐんできた私が、急に感情をあらわにするもんだから、
U先生もちょっと驚いて、その時点で診察時間が過ぎていたので、

「こっちに来てもらっていい?」

と別室に連れていかれて、話の続きをした。

この時の診察内容はこれ以外覚えてないのだが、
「いつもいつもいつも、うまくいかない」という私に、

「だって不安を何とかして貰いたいと思うから、そりゃうまくいかないよ」
とU先生は言った。

(別カテで今度書くが、不安神経症ゆえに人間関係が、
特に男性との関係がうまくいかないのだ。)

担当医について転院


泣きながら感情をぶちまけたのは、最初の精神病院ではその時だけ。
それ以降は淡々と「変わりありません」としか言わなかった。

それが1年くらい続いた頃だろうか、
U先生から開業しますという郵便はがきが届いた。

最初の病院は自宅から車で10分ちょっと。
U先生が開業する病院は、車で40分ほどかかる。

それでも何の迷いもなく、私はU先生についていった。



転院後もやっぱり私は、
「変わりありません」「ふらつきます」とだけ言い、
U先生は「いつもの薬出しておきますね」とだけ言って終了という診察が続いた。

たまに「どうしたらいいのかわかりません」と言うこともあった。

U先生は「何を?」とは訊かない。

いつも「グレーもあるよ」

と言ったけど、
つらいからどうにかしたいのに、グレーのまま過ごすことなんて
出来ないじゃない・・・・と心の中で思ってたっけ。

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担当医が決まるまで


地元で有名な、医療法人の精神科の門を叩いた私。

初診の診察は院長先生だった。
前の記事で書いたように、19歳の時の身内の裏切りが原因で、
不安神経症に罹ったと診断した先生。

次に診察した先生はまた別のN先生。

「念の為検査しましょうね」

と言われた。
何の検査をしたのか忘れてしまったが、心電図をしたのは覚えている。

動悸がする、と申告したのかは記憶にない。

結局内科的疾患を排除する為にしたのかも。
もちろん異常はなし。

自分に合った精神安定剤が決まるまで


院長先生とN先生、各々抗不安剤の処方が違った。
N先生はあれこれと数種類の薬を処方。
院長先生だと思ったが、処方薬を飲んだら理由はわからないが、
上手く歩けなくなってしまって、また別の先生の時に受診。

それが今も診てもらってるU先生。
院長先生の息子さんだ。(変わった苗字で同じだったから多分そう)

処方は替わって、ワイパックスに。
これがぴったり合いよく効いて、私はまた働きに行けるようになった。

このこともあり、私はその後ずっとU先生の曜日に受診していた。

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